広島に二十数年暮らした僕にとっては、戦争を思い出すと共に、平和を考える毎年やってくる夏の風物詩のような日です。
広島にいるときは原爆や平和をテーマに各種イベントを企画したり参加したりということがあったのですが、広島を離れてからはそういう機会がほぼなくなりました。
今年、広島県の「Cranes For Our Future」というキャンペーンのお手伝いをさせていただきました。このキャンペーンは簡単にいうと、折り鶴とメッセージに願いを込めて世界に届けるするというものです。mokumoku studioとしてロゴや折り紙をはじめ折り鶴キット日英版それぞれ制作しました。英語版はオバマ元米大統領やフランシスコ・ローマ教皇にも贈られるそうです。このキャンペーンのお話はKさんからいただきました。デザイン面ではAさんに相談させてもらったり、動画制作はOくんに協力してもらったりと、それが広島でアートイベントを一緒にやった仲間でもあったので、懐かしさと共に平和やヒロシマの歴史とも向き合う日々でした。
2013年に文化庁事業の一環でアートアーチひろしまというプロジェクトがありました。サテライト企画でアートと平和に関するパネルディスカッションにパネラーとして参加した時のことです。僕はアーティストという肩書きで、表現者目線で広島で活動することの意味や難しさを喋ったと思います。もう覚えている人はいないでしょう。僕はその時、「原爆がおちた町というイメージが強すぎて、この町で発表する作品は作者が意図せずそれに引っ張られてしまうことがある」みたいなことを言った気がします。世界から見たヒロシマのイメージというものもあります。
このプロジェクトの後、パートナーの掛田さんと3ヶ月ほどアメリカに行きました。もちろん戦争の語られ方も違います。それから広島から引っ越し離れて実感したのですが、同じ8月6日でも温度感が違う。広島にいる時は夏になると原爆、平和ということでテレビ新聞が賑わっていたのが、東京で普通に生活していてほとんど情報は入らなくなる。
広島に住んでいるときは「平和」という言葉が煩わしく感じることもあったのですが、なくなってみると少し寂しい。身勝手なものです。単に逆張りがしたいわけでもありません。なんでしょう、この気持ちは。
ずっと続いていく。あるいはそう信じたいもの。終戦76年、語り継がれてきたことそれ自体が価値なんだと気づきます。広島の町にはもはや土着的なものとしてそういう営みが根付いているのかもしれません。行政が予算をかけて町づくりだったり、発信してきた力はあるものの、それだけがその営みが続いてきた理由ではない。僕の知り合いにはボランティアでイベントをしたり、被爆者証言をサポートしたりといった人たちがいます。
今年の8月6日は、折り鶴をながめ広島をいつもより少し近くに感じながら、絵描きとしてのこれからの営みをぼんやり思い浮かべています。