私の偏愛シリーズ #1 靴下編

掛田智子が偏愛する様々な物を紹介する「私の偏愛シリーズ」、記念すべき第一回目は靴下を取り上げる。

私が靴下を愛し始めたのはいつからだろうか。記憶を遡ってみる。

私が高校に行っていた時代は、「女子高生」という文化の最盛期と言って良いだろう。とても分厚くて長いルーズソックスを履いたり、登下校や放課後などTPOに合わせてウエストの部分でスカートの長さを調整していた時代である。

ルーズソックスはもっとも象徴的なアイテムであった。私が記憶している限り、私の学校で黒いルーズソックスを履き始めたのは私だ。いや、学校だけではなく広島市内を見ても私は先駆者だった。少なくとも自分ではそう確信している。

一度ルーズソックスを黒にしてしまったもんだから、人と違う事をする快感を加速させるため校則の網をかいくぐるように様々な色の靴下を試し始めた。その頃から靴下へのこだわりが始まったのかもしれない。

おしゃれ は足元から、とは正しいと思っている。

せっかく素敵な服を着ても、靴下が残念なことはよくある。残念な組み合わせをしてしまうと、一日中憂鬱な気分になるもんだ。

靴下を集め始めて二十年以上。穴が空いても履き続け、気に入ったものは色違いでも揃える。破れても捨てられない。思い入れのある靴下ばかりが私の靴下をいれる棚を圧迫している。圧迫し続けているので、たまに空気の入れ替えと同時に整理整頓し直す。今日がその日。こうやって並べて眺めてみると本当にかわいい子たちばかりだ。かかとがすり減っていても捨てられるはずがないじゃないか。

海外旅行へ行って変わった靴下を探すのも楽しい。シンプルな服装にド派手な靴下ではずしたり。サンダルでも履いてみたり。

もちろん機能性ではなくファッション性重視である。

大人になるにつれ、社会のプレッシャーで「この場ではこういう格好をすべき」という感覚はとても大切だと思いながらも、あまり流されすぎないようにバランスをきちんと保ちたい。蛍光キミドリで何が悪い。靴下主導のファッションを続ける。アグレッシブに。

ストッキングとタイツも偏愛している。また次回に。

掛田 智子

ツルツルとざらざら -mokumokuカードできました-

mokumoku紹介カードの内側面/ファーストヴィンテージ紙に蛍光オレンジと紫インク

ディスプレイを眺める毎日。ニュースは眺めるようにしているけど、昨日のことも覚えていない。氷の上を滑っているみたいに、すぐに溶ける角砂糖を舐めているように。

mokumokuの紹介カードを孔版印刷でつくった。小さな無数の穴からインクが紙に着地している。手でこすると、うっすらと色がうつる。図画工作のときの版画を思い出す。時代に逆らっているように思えるけど、これは反動でもあると気づいている。

電子的にどこへでも行けるから、手の中には気に入ったものを置いておきたい。ノスタルジーという言葉は色あせているものと生身の感情をくっつける。見ることのない引き出しの奥が、明日なにをするかの判断材料になる。

何でも計算できる世界で、本当は計算できないものが役に立つ。

ちから

脳内現象

最近自分の過去の作品を振り返る機会があり、驚きと失望を同時に感じている。

驚きは「ああ、私はしっかり作品を作れているじゃないか。結構良い作品じゃないか。綺麗だぞ」失望は「今、これだー!と思って取り掛かっているアイディアと、結局当時の考え方は変わっていないな」ということ。

酸いも甘いもいろんな経験をし、自分にできる限りの知識という物を身に付け、いろいろ得たり、失ったり。そんな時間が経過した後でも自分は自分だった。変わらない自分がいた。

失望と言えど、自分自身を少し微笑ましくも思う。場所や時代が変わっても本当の興味って変わっていないのね。

同時に、私はこの自分の肉体と精神と一生お付き合いをしていかなければならない、これらを最大活用しなくてはならないので、この脳外にはみ出るようなぶっとんだアイディアなんで生み出す事ができないのではないかとちょっと落ち込み気味になる。

私の持っている細胞は唯一無二で、私が見ているものは私にしかわからない。それをポジティブに捉えられる日もあれば、落胆してしまう日もある。

でもまず何より、自分自身を理解して愛してあげたいと思う。鏡の中には、見たい自分が映っている。それは本当に自分を客観視できていることにはならない。本当の自分を自分が見てあげなきゃ、誰が見るの。そろそろ自分を認めてあげようよ。

私は茂木健一郎さんが好きで、著書も読ませて頂いている。おそらく彼の作品で私が読んだ最初の本が「生きて死ぬ私」(ちくま文庫)。最近また読み返している。

読んでいると、救われる。この苦しみって、他の人も感じているものなんだって。

茂木さんは言う。”それは、私の心の中で起こることの全ては、私の脳の中で生じるニューロン(神経細胞)の発火によって引き起こされている「脳内現象」にすぎないと言う命題である。”

目の前の空の色、鳥のさえずり、水の味、プロ野球を見る興奮は、全て脳内のタンパク質や核酸などの働きでしかない。

不思議だ。こうやって身体的に胸が重いのに。心は、感じていることは、脳内現象でしかない。

掛田智子