4と5は両想いで7はキザ野郎

絵日記#こんコロ4月28日「4と5は両想いで7はキザ野郎」
絵日記#こんコロ4月28日「4と5は両想いで7はキザ野郎」

子供の頃は、いくつぐらいまでだろう、手のひらが自分のプレイグラウンドだった。
その得体の知れない物体を見つめ、始まったばかりの生命みたいな感覚と、自分という訳のわからない感覚と、そこにある身体とよばれる1部を恐れては、たまに忘れ、眺めてはぼうっと考えとは呼べない何か抽象的な物語を断片的に、その手のひらに投影していた。

持て余していたのかもしれない。世界という物が覆いかぶさって、大人は優しくも、訳がわからなかった。

考えとは呼べない抽象的な物語の断片は、数字から始まった。
1はしっかり者で、3は甘えん坊。4は綺麗なお姉さんで5は何をやらせても卒なくこなす男前。6はおてんばなおばさんで7は数学のできる貴族。8はパーマ頭で9は魔女。登場人物が様々なドラマを繰り広げる。それが手のひらを見つめて始まり、世の中という自分以外の物を忘れさせてくれた。自分さえも必要なかったのかもしれない。自分という物が1番怖かったのかもしれない。怖くなったら、手のひらを眺めて数字の劇を観る。

こんなに飽きっぽい私が続けている唯一の事

絵日記#こんコロ4月27日「こんなに飽きっぽい私が続けている唯一の事」
絵日記#こんコロ4月27日

朝食には納豆と目玉焼きとご飯を食べる。必ず食べる。
いや、1年に1、2度ほどスキップするかもしれない。体調が悪かったり、前日にあまりにもヘビーな物を食べすぎて膨満感にあふれている場合。海外にいる場合。

それ以外は毎日納豆と目玉焼きとご飯を食べる。海外に行って何より恋しくなる日本食が納豆、目玉焼き、ご飯である。これはもう儀式であり、作法がある。
まず目玉焼きを作る。フライパンに多めにオリーブオイルを入れ、低温のうちに卵を割り入れる。そして周りの白身が程よくカリカリになり、黄身が透明のフィルムで覆われるまで調理する。黄身は1番底の部分を除き、煮えてはならない。何かに囚われて硬くなりすぎてしまった場合、その日の不幸の前兆を意味するので決して焼きすぎてはならない。

ご飯は玄米やもち麦などを好む。
納豆をまぜ、ご飯の上にかける。目玉焼きを食べる際は周りの白身から攻める。そして黄身を破らないように細心の注意を払いながらできるだけ白身の部分を食す。これも液体の黄身が流れ出してしまっては、その日の不幸の前兆を意味する。綺麗な円を描く黄身の部分を、また細心の注意を払いながら納豆ご飯の上に着地させる。そして黄身と納豆、そしてほかほかご飯というこの上ないハーモニーを楽しむ。毎日楽しむ。

栄養価もお墨付き。身体的にも、精神的にも整う朝食である。これがあれば大体私は幸せである。

白い吊り革か 銀色の棒か

絵日記#こんコロ 2021年4月26日
絵日記#こんコロ 2021年4月26日

電車の中のアナウンス。「急病のお客様を救護した関係で四谷駅には4分の遅れで到着です。お急ぎの中ご迷惑をお掛けし大変申し訳ありません。」青ざめた顔で倒れ込む人を想像する。隣の人がため息をつく。どうせ。

いや、ため息なんて聞こえなかったのかも。自分の中でそんなシーンを作りあげただけかも。どうせ。

交差点で人が行き交う。先週より人の数が増えている。減っている。それぞれのやらなければならないことをこなすため、急ぐ。歩く。どうせ。線路脇に植えられた緑を見る。この木は何を考える。いそいそと秒分を争い駅に急ぐ鉄の塊を横目に。何を思っているのだろう。

もうすぐ四谷に着く。四谷の次はお茶の水に止まる。